《花咲く乙女たちのかげに》より
途中で放り出していた《花咲く乙女たちのかげに I》の岩波文庫版を読み直していたら、意外なことに初めて気づいた 。ジルベルトは、スワンとオデットが結婚する前にすでに生まれていたのだ。
オデットの友だちには子供がいない tell de ses amies ... n'avait pas, elle, d'enfant のだけど、下線を引いたところ に elle が登場することで急に悩ましくなる。翻訳からさかのぼって解釈してみると... この人称代名詞 elle は文中の誰かを指しており、それはオデットではないかと。(ひるがえって、ここでわざわざ「女友だち」のことを指すだろうか? )そして、ふだんの文章ではあまり登場しないであろうこの位置にこの単語が置かれている点から、この場で読者に何かを知らせようとしているのであり、今は友だちに子供がいないと語っているのだから、一方のオデットは...と考えると、その背後には elle avait des enfants / une enfante 「彼女には子供がいた」というフレーズが隠されている。その結果、一つの例として上記の翻訳が成り立つということだろうか。
(余談)un homme qui était resté ..., et n'avait pas... と捉えると、男に子供がいなかったことになるのだろうか?...
集英社版では以下のように翻訳されている。語の扱いが少し曖昧になっているような気はするが、こちらでは、さきほどの elle はオデットの友だちとして解釈されているように見える。
物語の解釈としても、ジルベルトがすでに生まれていた方が、スワンを手玉に取っていたと思われたオデットの方がスワンと結婚できないと意気消沈しつつ諦めているわけ(p.101-102)にも、説得力が増すように思う。(それに、高級娼婦とはいえ、ほかの小説にはありがちな「私は独りで人生を生き抜く、子供がいても独りで立派に育ててみせる」などという独立心の強い姿勢は、結婚した友人の目を気にするようなオデットにはあまり感じられない。)
いずれにしても、これが単なる文法の問題なのか、文脈に則して正しく導き出すべき解釈の問題なのか、語学力の貧しい私には判断がつかないからだけなのであって、実際のところはもっと截然とした話に過ぎないのかもしれない。さて、筑摩書房版はどうなのだろう。光文社版はどうなるだろう。
実際のところ、この「驚愕の」事実については以下のごとく事前に触れられており、どぎまぎすることではなかったのだが、この文章をすっかり見落としていた私は、一人勝手に思案をめぐらしていたのだった...
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プルースト『失われた時を求めて』 第二篇《花咲く乙女たちのかげに》
鈴木道彦訳(集英社) (III-76)
吉川一義訳(岩波文庫)第3巻
以前、ブログサービスを移行しようとしたのだけど、思ったより自分の意図に沿って利用できないのと、そもそも記事を投稿できないのに場所を変えたところで、ということで移行はしばらく中断します。
そんな諦観に至るまでのあいだオデットが気に病んでいたのは、自分とスワンより短い交際期間をへて男と結婚した女友だちのことで、自分とは違って子供はなく今やそれなりに尊敬され大統領官邸(エリゼ)のダンスパーティーにも招待されているその友だちが、スワンの振る舞いをどう思っているかということだった。(p.102)
En attendant, Odette souffrait de ce que telle de ses amies, épousée par un homme qui était resté moins longtemps avec elle qu'elle-même avec Swann, et n'avait pas, elle, d'enfant, relativement considérée maintenant, invitée aux bals de l'Élysée, devait penser de la conduite de Swann. (Folio-1946 p.39)
オデットの友だちには子供がいない tell de ses amies ... n'avait pas, elle, d'enfant のだけど、下線を引いたところ に elle が登場することで急に悩ましくなる。翻訳からさかのぼって解釈してみると... この人称代名詞 elle は文中の誰かを指しており、それはオデットではないかと。(ひるがえって、ここでわざわざ「女友だち」のことを指すだろうか? )そして、ふだんの文章ではあまり登場しないであろうこの位置にこの単語が置かれている点から、この場で読者に何かを知らせようとしているのであり、今は友だちに子供がいないと語っているのだから、一方のオデットは...と考えると、その背後には elle avait des enfants / une enfante 「彼女には子供がいた」というフレーズが隠されている。その結果、一つの例として上記の翻訳が成り立つということだろうか。
(余談)un homme qui était resté ..., et n'avait pas... と捉えると、男に子供がいなかったことになるのだろうか?...
集英社版では以下のように翻訳されている。語の扱いが少し曖昧になっているような気はするが、こちらでは、さきほどの elle はオデットの友だちとして解釈されているように見える。
そうしているあいだにオデットが気に病んでいたのはさる友だちのことで、この女性はオデットとスワンほど長い期間もたたないうちに一緒に暮らしていた男と結婚したのであるが、彼女には子供がなく、今では比較的みなから尊重されてエリゼ宮のパーティに招待されるほどなので、オデットはこの友だちにスワンの振る舞いがどう思われているのかと気に病んでいたのである。
物語の解釈としても、ジルベルトがすでに生まれていた方が、スワンを手玉に取っていたと思われたオデットの方がスワンと結婚できないと意気消沈しつつ諦めているわけ(p.101-102)にも、説得力が増すように思う。(それに、高級娼婦とはいえ、ほかの小説にはありがちな「私は独りで人生を生き抜く、子供がいても独りで立派に育ててみせる」などという独立心の強い姿勢は、結婚した友人の目を気にするようなオデットにはあまり感じられない。)
いずれにしても、これが単なる文法の問題なのか、文脈に則して正しく導き出すべき解釈の問題なのか、語学力の貧しい私には判断がつかないからだけなのであって、実際のところはもっと截然とした話に過ぎないのかもしれない。さて、筑摩書房版はどうなのだろう。光文社版はどうなるだろう。
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実際のところ、この「驚愕の」事実については以下のごとく事前に触れられており、どぎまぎすることではなかったのだが、この文章をすっかり見落としていた私は、一人勝手に思案をめぐらしていたのだった...
ふたりが結婚する前の数年間は、たしか、女のほうがかなり卑劣な恐喝まがいの策略を弄したとかで、スワンが女の言うことを聞かないと、そのたびに娘を連れ去られていたそうです。(p.100)
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プルースト『失われた時を求めて』 第二篇《花咲く乙女たちのかげに》
鈴木道彦訳(集英社) (III-76)
吉川一義訳(岩波文庫)第3巻
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以前、ブログサービスを移行しようとしたのだけど、思ったより自分の意図に沿って利用できないのと、そもそも記事を投稿できないのに場所を変えたところで、ということで移行はしばらく中断します。
クリスティ『青列車の秘密』
クリスティの小説にはフランスを舞台にした作品がいくつかあって、『ゴルフ場殺人事件 Murder on the Links 』では地元のジロー警部とポアロの捜査対決がなかなか面白い。実際には空の上で事件が起こる『雲をつかむ死 Death in the Clouds 』もフランスの飛行場を飛び立ち、容疑者リストにはフランス人の名が多く連ねている。ほかにも「フランス・シリーズ」はあるのかもしれないが、寡聞にして知らず。『青列車の秘密 The Mystery of the Blue Train 』の場合はフランス国内を縦断する寝台列車が現場。カレーを出発しパリを経由、リヨンを経てニースへと至る豪華なブルートレインの中で殺人が起こる。こちらも事件解決にポアロが乗り出す。ちなみに、この作品が出てから6年後には名作『オリエント急行の殺人』が上梓されている。
ふだんからポアロは「ムッシュー Monsieur」「モナミ Mon ami」と呼びかけたり、「結構 Bon! 」「すばらしい Très bien! 」とフランス語を漏らすのだけど、この小説ではいつも以上にフランス語が登場するようだ。改めてページをめくり気づいた台詞を片っ端から挙げてみると...
「例えばそれです(サ・パル・イグザンプル)Ça par exemple 」「確かにね(プレシゼマン) Précisément 」「現実的とは言えません(サ・ネ・パ・プラティク)Ça n'est pas pratique 」「彼女は思いやりがある(サンパティク) Sympathique 」「聞いたところでは(オン・マ・ディ)On m'a dit 」「言葉どおりに(オ・ピエ・ド・ラ・レトル) Au pied de la lettre 」「上の空(ディストレ) distrait 」「もちろん(ビアン・アンタンデュ)Bien entendu 」「何たることでしょう(ミル・トネル)Mille tonnerres! 」などなど。Voilà や Mon Dieu は、あいかわらず。
端々にこれだけフランス語が出てくると、改めてポアロがイギリス人ではなく外国出身の探偵だということが分かって面白い(念を押しておくと、エルキュール・ポワロはフランス人ではない)。作者自身は『青列車の秘密』をあまり好んでいなかったそうで、構成としても後半に多少冗長な部分が感じられたけれど、個人的には味わい深い逸品だった。蛇足だが、作中にあの「セント・メアリー・ミード村」が出てくる。
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アガサ・クリスティー『青列車の秘密』
青木久恵訳 (ハヤカワ文庫)
Agatha Christie, The Mystery of the Blue Train (1928)
(Le Train bleu)
フランス『シルヴェストル・ボナールの罪』
アナトール・フランスの『シルエストル・ボナールの罪』は一生娶(めと)らず、書籍を友として書斎に老いる学者を主人公とした作品である。従って書物は全巻の随所に出て来る。(...)
この小説に出て来る書物は、われわれの知らぬものばかりである。しかし古今東西を通じて渝(かわ)らぬ書物愛好者気質(かたぎ)は、全篇ににじみ出ている。書物そのものを主材にした小説として、『薪』は最もすぐれたものの一つであろう。(柴田宵曲「書物を題材とした作品」,『書物』より)
芥川龍之介が傾倒した文豪として、『失われた時を求めて』に登場する架空の作家ベルゴットの主要なモデルとして、文学史の中の「過渡期」というやや冷遇された場所で、以前から作家の名前を知っていたけれども、その作品を実際にひもとく機会はずっと逸したままだった。...本屋の片隅に彼の名をみとめても、他の作家に目を奪われて後回しにしてきただけに過ぎないが。今回アナトール・フランスの作品を初めて読むことができたのは、冒頭に掲げた柴田宵曲による随筆のおかげだ。渾身こめて力説しているわけではなくあらすじや見所を淡々と述べている程度なのだが、もっぱら日本の書物が取り上げられるなかで『ボナールの罪』に紙幅を割いており、それ相当に推薦の書なのだと感じた次第。実際に読んだところでも、妙のある翻訳があいまって、期待が裏切られることなく隅々まで堪能することができた。...これまでの読書経験をよくよく思い返してみれば、期待どおり期待以上というのはなかなか珍しいことではないだろうか。
宵曲が解説するとおり、第1部の『薪』は愛書家を扱ったすぐれた小説だと思う。酔狂な愛書家を主人公にその性分が良く書かれているし、書物の知識だけでは人間の心は分からないということも忘れずに謳っている。第2部『ジャンヌ・アレクサンドル』では書物は二の次ではあるけれど、やはり主人公と書物との関係が物語の鍵となっていて面白い。作家出世作だけのことはある。
それにしても、最後の顛末だけいまいち解せないのは私だけだろうか。
〔参考〕森銑三・柴田宵曲『書物』(岩波文庫)
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アナトール・フランス『シルヴェストル・ボナールの罪』
伊吹武彦訳 (白水社・岩波文庫)
Anatole France, Le Crime de Sylvestre Bonnard, 1881
アナトール・フランス
アナトール・フランスAnatole France, 1844-1924
小説家、批評家。パリ生まれ。パリのスタニスラス学院に学ぶ。古典的な価値をつねに擁護した博識なディレッタント。ドレフュス事件では、バレスとは異なって、ゾラの行動を支持するが、懐疑的な書才人の姿勢を生涯保ち続けた。代表作に、辛辣なフランス国民史『ペンギンの島』(1908)、ロベスピエールの姿を描いた『神々は渇く』(1912)など。1921年ノーベル文学賞受賞。
(『読んで旅する世界の歴史と文化 フランス』新潮社)
《スワン家の方へ》より
夜、家の前の大きなマロニエの下で、私たちが鉄製のテーブルを囲んで座っていると、庭のはずれから聞こえてくる呼び鈴が、溢れんばかりにけたたましく、鉄分をふくんだ、尽きることのない、冷んやりする音をひびかせる場合、その降り注ぐ音をうるさがるのは「鳴らさずに」入ろうとしてうっかり作動させてしまった家人だとわかるのだが、それとは違って、チリン、チリンと二度、おずおずとした楕円形の黄金(きん)の音色が響くと来客用の小さな鈴の音だとわかり、皆はすぐに「お客さんだ、いったいだれだろう」と顔を見合わせ、それでいてスワン氏でしかありえないのは百も承知なのだ。(岩波文庫第1巻 pp.45-46)
Les soirs où, assis devant la maison sous le grand marronnier, autour de la table de fer, nous entendions au bour du jardin, non pas le grelot profus et criard qui arrosait, qui étourdissait au passage de son bruit ferrugineux, intarissable, et glacé, toute personne de la maison qui déclenchait en entrant « sans sonner », mais le double tintement timide, ovale et doré de la clochette pour les étrangers, tout le monde aussitôt se demandait : « Une visite, qui cela peut-il être ? » mais on savait bien que cela ne pouvait être que M. Swann ... (Folio-1924 p.14)
この文章にも、語順に重要な意味があることを翻訳者は指摘する。「チリン、チリン」という音が響いて、家族の耳に届き、それが鈴が揺れたのだと想い浮かぶ。次いで、それが来客用の鈴だと分かり、誰かがやってきたのだと気づくのだが、小説は、これによってスワン氏の登場を告げる。
「このような音の認識の順序が重要なのは、それが少年にとって、母親のお寝みのキスを奪うスワン氏の来訪が告げるものだったからです。」(吉川一義『プルーストの世界を読む』p.52) 少年にとって、聞こえてくる音が「鉄分をふくんだ、尽きることのない、冷んやりする音」なのか、「チリン、チリンと二度、おずおずとした楕円形の黄金(きん)の音色」なのかによって、就寝が悲劇のものとなるかもしれない重大な関心事だったのである。
『失われた時を求めて』は、本当に油断のできない小説だ。ただ単に聴覚的に美しいと想っていた文章も、何気ないけれど、それ相当に大切な役割を担っていたりするからだ。
〔参考〕吉川一義『プルーストの世界を読む』岩波書店
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プルースト『失われた時を求めて』 第一篇《スワン家の方へ》
吉川一義訳(岩波文庫)第1巻
《スワン家の方へ》より
作家がある事象に焦点をあてて、瞬間の移り変わりを的確にとらえた場面があるとする。そういう箇所では、できる限り語順に忠実な翻訳を試みることで、原文に近い時間体験を追うことができるかもしれない。
深い思索が展開されているとか、小説の重要な伏線が描かれているといった、何か重要なことがとくだん盛り込まれているわけではなさそうだ。日常によくみられるほんの数秒の出来事を描写しているだけにみえる。けれども、語順に注目して観察してみると、そこには作家の類いまれなる感受性が露見してくる。ここでは、語順が感覚の推移を反映している。眼だけではなく、耳にも鋭い知覚をもった語り手が ...それを実際に言葉にしたプルーストという作家が...、ほんの一瞬の出来事を、つまり、何か音がしてそれが何かと分かるまでの一瞬を、見事に表現した例だと思う。自身も表明しているとおり、訳者はその意図をくみ取って、何気ないこのような文章も注意深く訳出したのだ。
〔参考〕集英社版の翻訳。
* 本記事は、カルチャーセンターの受講にもとづいています。
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プルースト『失われた時を求めて』 第一篇《スワン家の方へ》
鈴木道彦訳(集英社) (I-184)
吉川一義訳(岩波文庫)第1巻
小さな音が窓ガラスにして、なにか当たった気配がしたが、つづいて、ばらばらと軽く、まるで砂粒が上の窓から落ちてきたかと思うと、やがて落下は広がり、ならされ、一定のリズムを浴びて、流れだし、よく響く音楽となり、数えきれない粒があたり一面をおおうと、それは雨だった。(岩波文庫第1巻 pp.230-231)
Un petit coup au carreau, comme si quelque chose l'avait heurté, suivi d'une ample chute légère comme de grains de sable qu'on eût laissés tomber d'une fenêtre au-sessus, puis la chute s'étendant, se réglant, adoptant un rythme, devenant fluide, sonore, musicale, innombrable, universelle : c'était la pluie. (Folio-1924 p.100)
深い思索が展開されているとか、小説の重要な伏線が描かれているといった、何か重要なことがとくだん盛り込まれているわけではなさそうだ。日常によくみられるほんの数秒の出来事を描写しているだけにみえる。けれども、語順に注目して観察してみると、そこには作家の類いまれなる感受性が露見してくる。ここでは、語順が感覚の推移を反映している。眼だけではなく、耳にも鋭い知覚をもった語り手が ...それを実際に言葉にしたプルーストという作家が...、ほんの一瞬の出来事を、つまり、何か音がしてそれが何かと分かるまでの一瞬を、見事に表現した例だと思う。自身も表明しているとおり、訳者はその意図をくみ取って、何気ないこのような文章も注意深く訳出したのだ。 〔参考〕集英社版の翻訳。
何かが当たったように、窓ガラスに小さな音が一つした。ついでそれが広がり、規則正しく一つのリズムを帯び、水になり、響きを発し、音楽を奏で、無数の粒となって、あたり一帯を覆った。雨だ。
* 本記事は、カルチャーセンターの受講にもとづいています。
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プルースト『失われた時を求めて』 第一篇《スワン家の方へ》
鈴木道彦訳(集英社) (I-184)
吉川一義訳(岩波文庫)第1巻
サンペ『マルスラン・カイユー』
サンペは『プチ・ニコラ』の挿絵を描いた人。(物語を書いたルネ・ゴシニーは、バンド・デシネの超ロングセラー『アステリクス Astérix le Gaulois 』のシナリオ作家として知られている。)
イラストレーションにくわえて、サンペ自身が文章を付けた作品も数多く、そのほとんどは今、フランスで最も有名な文庫シリーズ Folio から出版されている(*)。『マルスラン・カイユー』もその一つ。マルスランという名の小学生が主人公の物語である。対象年齢8歳以上 «à partir de 8 ans» とあるので、マルスランもきっとそのくらいの年齢なのだろう。つまり、自分にはどこか他人とはちがうところがあるのではないかと気づき、子どもによってはそれが悩みの種となる、そんな年頃ではないかと思う。
「マルスラン・カイユーはほかの子供たちと同じようにとても幸せだとよかったのだけれど。残念ながら、彼は一つ風変わりな病気 une maladie bizarre に悩まされていた。それというのも、彼は何かにつけて、顔が赤くなってしまうのだった。」
物語にはマルスランとならんでもう一人、ルネ・ラトーという子が登場する。「鋭敏なヴァイオリニストで、学校でも優れた生徒だった彼は、小さい頃から奇妙な病気 une maladie curieuse に悩まされていた。彼はしょっちゅうくしゃみをしていたのだ。一度も風邪をひいたことがないのにもかかわらず...」
『プチ・ニコラ』の子供たちは、ニコラを筆頭にいたずら好きのわんぱく坊主ばかりだけれど、『マルスラン・カイユー』では、子どもの少しちがった側面がクローズアップされる。サンペ自身がどんな幼少時代を過ごしたのかは知らないけれど、この物語には『プチ・ニコラ』以上に、作者自身の像が投映されているのかもしれない。
個性の時代、多様性の時代などといいながら、何となくみんなと同じじゃないと不安という風潮や心性は、どうも昔から変わっていない気がする。でも、マルスランとルネを見ていると、そして物語に出てくるほかの「風変わりな」子供たちをみていると、世の中は十人十色であって、それは言葉以上に重要な事実なのだと思ったりする。(この作品には、人と人との関係のなかでもっと大事なメッセージがこめられていると思っていますが、それは核心でもあるので、ここでは触れません。)
(*) 邦訳は大型本なので、サンペの絵をワイドに堪能できる。絶版だけれども、一般の図書館で気軽に借りられる。翻訳は谷川俊太郎氏。
〔蛇足〕
主人公の名前に「マルスラン・カイユー Marcellin Caillou 」を選んだのは、何か理由があるのだろうか。「マルスラン」はフランスでは珍しい名前なのか? 姓名両方に含まれる「ll」が、普段の発音規則と少しずれているところ(マルセラン・ケルーではなく)から、「風変わり」を想起させる? チーズのサン=マルスラン Saint-Marcellin や、小石 caillou と何か関係ある?などと、妄想。多分、どれも的外れな気がする...
--
ジャン・ジャック・サンペ『マルセランとルネ』
谷川俊太郎訳(リブロポート)
Jean-Jacques Sempé, Marcellin Caillou (1969)
イラストレーションにくわえて、サンペ自身が文章を付けた作品も数多く、そのほとんどは今、フランスで最も有名な文庫シリーズ Folio から出版されている(*)。『マルスラン・カイユー』もその一つ。マルスランという名の小学生が主人公の物語である。対象年齢8歳以上 «à partir de 8 ans» とあるので、マルスランもきっとそのくらいの年齢なのだろう。つまり、自分にはどこか他人とはちがうところがあるのではないかと気づき、子どもによってはそれが悩みの種となる、そんな年頃ではないかと思う。「マルスラン・カイユーはほかの子供たちと同じようにとても幸せだとよかったのだけれど。残念ながら、彼は一つ風変わりな病気 une maladie bizarre に悩まされていた。それというのも、彼は何かにつけて、顔が赤くなってしまうのだった。」
物語にはマルスランとならんでもう一人、ルネ・ラトーという子が登場する。「鋭敏なヴァイオリニストで、学校でも優れた生徒だった彼は、小さい頃から奇妙な病気 une maladie curieuse に悩まされていた。彼はしょっちゅうくしゃみをしていたのだ。一度も風邪をひいたことがないのにもかかわらず...」
『プチ・ニコラ』の子供たちは、ニコラを筆頭にいたずら好きのわんぱく坊主ばかりだけれど、『マルスラン・カイユー』では、子どもの少しちがった側面がクローズアップされる。サンペ自身がどんな幼少時代を過ごしたのかは知らないけれど、この物語には『プチ・ニコラ』以上に、作者自身の像が投映されているのかもしれない。
個性の時代、多様性の時代などといいながら、何となくみんなと同じじゃないと不安という風潮や心性は、どうも昔から変わっていない気がする。でも、マルスランとルネを見ていると、そして物語に出てくるほかの「風変わりな」子供たちをみていると、世の中は十人十色であって、それは言葉以上に重要な事実なのだと思ったりする。(この作品には、人と人との関係のなかでもっと大事なメッセージがこめられていると思っていますが、それは核心でもあるので、ここでは触れません。)
(*) 邦訳は大型本なので、サンペの絵をワイドに堪能できる。絶版だけれども、一般の図書館で気軽に借りられる。翻訳は谷川俊太郎氏。
〔蛇足〕
主人公の名前に「マルスラン・カイユー Marcellin Caillou 」を選んだのは、何か理由があるのだろうか。「マルスラン」はフランスでは珍しい名前なのか? 姓名両方に含まれる「ll」が、普段の発音規則と少しずれているところ(マルセラン・ケルーではなく)から、「風変わり」を想起させる? チーズのサン=マルスラン Saint-Marcellin や、小石 caillou と何か関係ある?などと、妄想。多分、どれも的外れな気がする...
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ジャン・ジャック・サンペ『マルセランとルネ』
谷川俊太郎訳(リブロポート)
Jean-Jacques Sempé, Marcellin Caillou (1969)
ジャン=ジャック・サンペ

ジャン=ジャック・サンペ Jean-Jacques Sempé ,1932
フランスの漫画家、イラストレーター。ボルドー生まれ。「パリ・マッチ」「パンチ」「ザ・ニューヨーカー」などの多くの雑誌に作品を発表。日本ではルネ・ゴシニーとの共作『プチ・ニコラ』シリーズ(1960-1964)の挿画家として有名。代表作に『ムッシュー・ランベール』(1965)『マルスラン・カイユー』(1969)『恋人たち』(1991)など。音楽愛好家として『音楽家たち』(1979)や『コンサートいくつか』(1987)を上梓したほか、『暗いブティック通り』の小説家パトリック・モディアーノ文による共作『カトリーヌ・セルティテュード』(1988)もある。軽やかな筆致のなかに心の機微や優しさを描くスタイルは、活動当初から一貫している。
画像:René Goscinny et Jean-Jacques Sempé.
© IMAV Editions/ Goscinny-Sempé. 右がサンペ、左はゴシニー。
〔参考〕
- The New Yorker誌の表紙を飾った作品一覧
- ジャン=ジャック・サンペ讃
『Mind the Gap』
子どもの頃、初めて乗る電車には少なからず昂奮をおぼえた。家族旅行でおもむいた伊豆の想い出は、浜辺で遊んだ光景よりも、クリーム地を緑色のラインが斜めに走る「踊り子」号の車体の方が脳裡に焼きついている。ローカル電車でも、到着する列車が新型車両なのか旧型なのかで一喜一憂したものだ。

ところで、もっと関心を向けていたのは、路線図だった。...赤と橙が四角い箱(駅)で交差する、水色は横にまっすぐ突き抜ける、紫はやたらと短い... 東京地下鉄(当時は営団)の路線図はいちばんのお気に入りで、気の向くままふらふらと電車に乗れるような身分ではなかったから、乗ったことのない路線、たまにしか乗らない路線にさまざま思いをめぐらせた。...青が行き着く先は? いとこの家に行くときは緑に乗れる... 色鉛筆をつかって、架空の路線図を描いたりもした。路線図は空想世界へいざなってくれる扉の一つだったと思う。今でも、電車に乗って暇をもて余すと、いつのまにか路線図に視線を向けているような。
切符もまた興味の的だった。友達と電車に乗る際、改札でパンチしてもらった切符の形をお互いに見比べたり、...─おまえの、端っこ切られてるから負け! ─何だそれえ!... 普段乗らない路線の切符をとっておきたくて、改札で切符を返さずに持ち帰るにはどうしたら良いかと電車の中で悩んだり。駅員がパンチをカチカチとやりながら改札で待ちかまえていた頃のお話。
本書は『Departure』や『Transit』の鉄道版。路線図を確認、時刻表をひらき、切符を手に取り、荷札を点検、お土産買うのも忘れずに...。『Mind the Gap』をながめると、かつての自分と同じように鉄道に夢をふくらます子どもが、世界にもたくさんいたんだろうな、そして今もいるんだろうなと思う。最近は、大人たちの方がはしゃぎすぎのようだけれど。
〔蛇足〕
- «Mind the gap». 「乗り降りの際は、ホームと電車との隙間にご注意下さい。」
- 路線図の画像は東京でもなくパリでもなく、バルセロナ。何度か訪れたけど、地下鉄には一度も乗ったことがない。9路線もあってけっこう発達しているようだ。
--
柳本浩市『Mind the Gap』(Glyph.)

ところで、もっと関心を向けていたのは、路線図だった。...赤と橙が四角い箱(駅)で交差する、水色は横にまっすぐ突き抜ける、紫はやたらと短い... 東京地下鉄(当時は営団)の路線図はいちばんのお気に入りで、気の向くままふらふらと電車に乗れるような身分ではなかったから、乗ったことのない路線、たまにしか乗らない路線にさまざま思いをめぐらせた。...青が行き着く先は? いとこの家に行くときは緑に乗れる... 色鉛筆をつかって、架空の路線図を描いたりもした。路線図は空想世界へいざなってくれる扉の一つだったと思う。今でも、電車に乗って暇をもて余すと、いつのまにか路線図に視線を向けているような。
切符もまた興味の的だった。友達と電車に乗る際、改札でパンチしてもらった切符の形をお互いに見比べたり、...─おまえの、端っこ切られてるから負け! ─何だそれえ!... 普段乗らない路線の切符をとっておきたくて、改札で切符を返さずに持ち帰るにはどうしたら良いかと電車の中で悩んだり。駅員がパンチをカチカチとやりながら改札で待ちかまえていた頃のお話。本書は『Departure』や『Transit』の鉄道版。路線図を確認、時刻表をひらき、切符を手に取り、荷札を点検、お土産買うのも忘れずに...。『Mind the Gap』をながめると、かつての自分と同じように鉄道に夢をふくらます子どもが、世界にもたくさんいたんだろうな、そして今もいるんだろうなと思う。最近は、大人たちの方がはしゃぎすぎのようだけれど。
〔蛇足〕
- «Mind the gap». 「乗り降りの際は、ホームと電車との隙間にご注意下さい。」
- 路線図の画像は東京でもなくパリでもなく、バルセロナ。何度か訪れたけど、地下鉄には一度も乗ったことがない。9路線もあってけっこう発達しているようだ。
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柳本浩市『Mind the Gap』(Glyph.)
清水徹『ヴァレリー』
どうして熱狂を感じないでいられよう、(...)
どうして夢中にならずにいられよう、(...)ポール・ヴァレリー『ムッシュー・テスト』清水徹訳
ヴァレリー、ヴァレリーと連呼してみせるけれど、きみは彼の著作をたいして読んでいるわけではない。森然と並ぶ全集に比べたら、ほんとうに微々たる量である。
『ムッシュー・テスト』。とりわけてきみの心をとらえた作品らしい。そして、その著者がポール・ヴァレリーではなく、エドモン・テスト氏その人だと錯覚したのも、さほど不思議ではない。レオナルド・ダ・ヴィンチ論についても、それは知性の怪物テスト氏が書き記した自分自身の生成過程、方法学だと見なしたわけだ。青年時代の感染病ともいうべき抽象の称揚、純粋たる知性へのあこがれ。きみはさらに、そこにデーモンをかいま見たのだろう、ハンマースホイが描く空漠とした室内、モーツァルトが紡ぐ嵐の前兆が、きみの心を波立たせ、焦燥させるように。しかし、結局のところきみは、神殿のまわりで指をくわえてうろうろしていただけなのだ。そう、きみはヴァレリーを神殿と見なしている。そこに隠された《奥義》を探し求めようともせず、壮麗なる知性の建築物を眺めていたいだけなのだ、己の審美眼をひそかに自画自賛しながら。
だが、そんな偶像崇拝の時代にも終わりがきたようだ。ヴァレリーは決して知性の怪物などではなかった。きみと同じように血が通い、きみと同じように愛に煩悶した人だった。推測するに、ヴァレリーは名誉欲や虚栄心を捨て去るほど聖人君子でもなかっただろう、普通の人々と変わりなく、きみのように。ブルトンは、言葉とは裏腹に公衆に姿をさらけだしたテスト氏=ヴァレリーを、許せなかったのだろうか。
〔画像〕南仏セートにあるヴァレリーの墓。From Wikimedia Commons.
〔補遺〕2011年2月より『ヴァレリー集成』全6巻の刊行が始まった。テーマ別に新訳を展開するらしい。恒川邦夫氏の《テスト氏》が読めるだろう。
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清水徹『ヴァレリー ─ 知性と感性の相克』(岩波新書)
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『失われた時を求めて』を読みながら フランス文学などにあこがれる。
by marcel_proust
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